■ 消費者が村へ押しかけた

   第一次石油ショックの起こる2ヶ月前、過疎化の傾向にありながら平穏に暮らしていた三芳村へ、東京から25名の消費者が手弁当で押しかけたのは1973年秋10月のことでした。
村の共同館に生産者・消費者合わせて70〜80名近くが集まり、むんむんする熱気の中で、喧々諤々(けんけんがくがく)の話し合いが展開されました。
   その場で私達が訴えたことは、都市ほど公害食品が集中しており、大量生産・大量消費・広域流通による経済優先・合理主義によって、食べ物の質が化学合成化・工業化され、私達の生命、健康がおびやかされていること、最早、自衛手段として立ち上がる以外にないと、真剣になって生産者に訴えました。
    また、合成洗剤・食品添加物・石油タンパク・農薬・化学肥料・配合飼料の害を始めとして、異常気象・エネルギー資源(石油)・我が国の食糧自給率の問題点など、情報を馳使して熱心に生産者に説明したのでした。
   静かな純農村へ、東京から大勢の消費者がやってきて、臆面もなく農業を論じ、果ては「日本の農業滅亡論」まで飛び出す始末、そのうえ、これは生産者自らの問題でもあると切りだしたのですからさあ大変、会場は蜂の巣を突ついたような騒ぎとなりました。そこで、化学肥料や農薬を使わないで、米・野菜・果物を生産していただきたいとお願いしました。卵は有精卵をと要望いたしました。
  三芳村に私達を案内されたのは、元安全食糧開発グループ代表の岡田米雄氏で、北海道のよつ葉牛乳共同購入運動を指導された方です。訪れた消費者は主に三多摩から募集した人達で、既に山岸会の卵や、よつ葉牛乳などを共同購入していたリーダー達でした。
    岡田氏のもとで、毎月一回、「牛乳問題勉強会」を持ち、資料を馳駆して現代食料事情を学習しておりましたので、更に自衛すべく日本人の食生活に不可欠な米・野菜を求めて直接村へ押しかけたというわけでした。

 ■ 参加のための条件

   その後、約半年間の話し合いが東京と三芳村を往復して行われました。そして、まず覚悟の決まった人達で出発しようという事になり、発足に当たり「趣意書」を作って会員を募り、参加のための条件を明記しました。
@ 会員一名あたり保証金1万円を拠出する。
A 参加者には生産された生産物はすべて均等に分けられる。
(全量引取り制)

B 価格は生産者がつける。
ということに加えて、

C 流通は可能な限り、消費者の戸口まで生産者が配送する。
というもので、当時としては画期的な条件でした。‘74年2月のことで、生産者19名、消費者111名で正式に発足いたしました。
また、10名を目標単位としてポストをつくり、作物はコマツナ1品目と和田博之氏のミカンからスタートしました。生産に関しては、身土不二(しんどふじ)・適期適作を基本に土地柄に合った作物を無理なく作っていただくこととしました。最初から無農薬・無化学肥料を原則に、露地栽培で、自然堆肥や単品の有機質肥料を自家配合した施肥ということで、厳しい条件のうえ、各戸50羽以上の鶏を飼うことが義務づけられ、有畜複合経営の少量多品目生産という大転換の出発となりました。
   三芳村に勇気と自信を与えてくださったのは、故露木裕喜夫先生です。すでに先生は自然農法20年の実績を踏んでおられ、先生との出会いによって土台ができあがりました。
   先生は決して小手先の技術指導はされず、専ら自然観察(自然の仕組み)から入られ、『人は地に法り(のっとり)、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る』(中庸)を常々引用され、既成概念にとらわれない新しい発見や喜びのある農法であることを示唆されました。
   また、この運動を社会的・経済的にも持続可能にするために「参加のための条件」を提示し、単に「もの」と「もの」とを売り買いする産直と異なり、いわば運命共同体的な信頼関係に基づく提携運動であるところに、従来の消費者運動との大きな違いがあります。それまでの、“消費者は王様”の発想から、いかに“ほんものの味”や“安全”の代価を求めるのには、決して楽して手に入れられるものでないことを、まず消費者は身をもって覚悟することから出発したのです。具体的に所得保障方式を導入したのもその一つです。20年経った今でも、この精神に変わりなく、提携の原則となっています。

 ■ 食は生命(いのち)なり −生き方は食べ方―

この運動で大事な一つは食べ方です。一物全体食ともいい、なるべく人為的に手を加えず全体を食すということです。漂白したり、着色したり、形や色彩や大小や見目にとらわれず、皮をむいたり、削ったりせず、根も葉も茎も無駄なく食すことを基本にします。
   食べ方は生き方と認識して、自然に順応し、季節々々に与えられた旬の野菜(素材)を、いかに変化を持たせて調理するか、食べ方の工夫も大事な仕事(こと)です。“野菜を食べる”ということを、別の言い方をすれば、それは“畑を食べる”ということですから、オーダーメイドからレディメイドに発想の転換をせざるを得なくなりました。この事は結果的には、豊富な野菜と出会い、健康的に良いということです。
   ところで、三芳村の生みの親である和田金次先生(元農業中堅青年養成所長)を忘れることはできません。先生は故郷の三芳村を私達に紹介された方で、和田博之氏の叔父上にあたり、農業教育者として、渡辺克夫氏はじめ農業後継者である多くの人材を育成されました。

 ■ 有機農業運動をひろげるために

『沈黙の春』や『複合汚染』の発表で、社会に農業禍が警鐘されて以来、“有機農業”ということばが普及し社会化されました。わが国においては、その背景に日本有機農業研究会が大きな役割を果たしてきました。特に顧問の一楽照雄先生は三芳村と食べる会の運動を、提携運動の実践例として早くから注目され、評価してくださいました。先生は、流通のための基準づくりが主流をなす国際有機農業運動に対して、“生産者と消費者による提携運動”こそ、真の有機農業を持続発展させることの可能な運動であることを確信し、提唱しておられます。提携運動は日本独自の運動です。それゆえに、私達もその責任の一旦を担っていることを改めて痛感いたしております。
   ‘78年日本有機農業全国大会で「生産者と消費者による提携の10か条」が発表されましたが、主な柱は食べる会の実践がモデルとなりました。(三芳の苦労に負うところ、大ですが)
   この20年、会は順調とばかりはいえませんで、次々に困難にぶつかりながらも産消提携の中で解決してきました。流通の選択も多様化し、底の浅い有機農業も氾濫して、今後はもっと難しい状況となるかもしれません。しかし、私達はこの提携運動を通じて、都市と農村の共生、日本の農業の自立、国土の環境保全にまで視野を広げました。有機農業運動発展のため一層力を合わせてまいりしょう。

 1993年5月  戸谷委代